u1005のブログ

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広告とか性とかwebとか宗教に関して。先端と末端の間から。経済性と社会性の間から。

新興宗教と全力で戦って学んだ、「人が宗教に依存する理由」

宗教って深い。「信じること」が、「信じないことを認めないこと」に変わった瞬間に、すべては悪い方向に流れ出すよね。というお話。

信仰とは確証し得ないものを確信することである。

と、大学2年の時に西洋思想史の教授に習って、 確証し得ないことをもって確信の核とするのであるから、確証し得ぬことを確信する馬鹿らしさを説いたところでもう完璧に無駄なのである。と、孤独な戦いの末に辿り着いたのでまとめます。

なんだか悟りを開いた気分です。 しかし自身は無宗教ですのであしからず。

なんであんなに子供だまし以下のことを本気で信じられるのか

一般的に考えてなぜ信じられるのかが本気でわからないような代物でも、実際に信じている人がいるのは事実。そして実際に信じる人がいるからには、それなりの理由と仕組みがある。入り口で突っぱねてしまうんじゃなくて、なぜそうなるのかを考えてみたい。

家庭などを原因としてはじめから特殊な環境で育った子供以外は、何らかのきっかけと入り口から宗教に出会い、信仰に目覚める。

当たり前のことだけど、宗教に生きる人間は違いなく宗教に出会い、信仰に目覚めるという段階を追った人だ。

宗教に出会うのは簡単だ。知人の勧誘、郵便受けに入った冊子、たまたま目に留まった本、無料のセミナー。あらゆる宗教が、あらゆる入り口を作って待ち構えている。

宗教に出会う。

でもだからといって、信仰に目覚めるとは限らない。冊子の内容な仰々しい割に子供じみているし、無料セミナーの案内だってよく見ればそれなりの怪しさが漂っている。殆どの人はそんな冊子や勧誘に興味をそそられたりしないし、ましてやそこに信仰を見出そうとは思わない。

上でも書いたけれど本質的には確証し得ないことを確信するのが宗教の、そして信仰の本質だ。確証し得ないことを確信するんだ。これには相当の覚悟が必要になる。

矛盾に矛盾を重ねた教義、崩壊しきった理論。そしてそこに些細な疑念の欠片さえ挟むことは許されない。本気を出しきって信じきった者だけが救われるのがそもそもの宗教だ。

つまり信仰に大事なのは

本気の信仰には、盲目性の獲得が鍵を握っている。ありえないことを信じて、信じることに救いを求める。疑うことを放棄する。すべて盲目性のなせる技だ。

一歩推めると、日常生活において盲目性を獲得する必要性を少なからず感じている人間が、信仰に目覚める素質のある人間ということになる。そしてその盲目性は、人間が自らを守ろうとする本能、「自己防衛本能」に起因する。

少しくらい不可解でも、一般人から見れば相当に不可解でも、子供だましでも、本人にとっての俗世が苦悩に満ち満ちている場合、信じた方が「楽」なパターンがあって、ここが信仰のきっかけになっている。

宗教に出会う。

この時点では本人も半信半疑なんだろう。だけど「なんとなく」気になる。この「なんとなく」こそがまさに自己防衛本能で、自らの身体が、そして心が盲目性を獲得することを望んでいる最初のサインに他ならない。

「なんとなく」気になったセミナーに参加してみた人がいたとする。セミナーの主催者らは、来場者にどう接するだろう。いきなり教祖についての長ったらしい説教を始めて、地球の終わりと精神世界の構造、ユートピアの建設について熱弁するだろうか。中にはそんな短絡的な思考で勧誘をしている宗教もあるかも知れないが、大抵の奴らはそこまで馬鹿じゃない。

褒めるんだ。徹底的に褒めるんだ。学歴や容姿、生活や価値観、なんでもだ。徹底的に肯定して、同意して、賛辞を送る。そして他人に「認められている」と感じた瞬間、その人の心は軽くなり、柔らかくなり、満たされる。

それが狙いだ。団体内で承認や賞賛を得てしまった場合、本人にとってその団体が無くてはならない場所になり、本人にとって唯一の居場所になってしまうことも少なくない。

初めは「なんとなく」参加していたセミナーだけど、気づけば夢中で通うことになる。

やつらの狙い通りだ。

このように宗教の中に自ら居場所を見出してしまうと、一般人から見て怪しかろうが馬鹿らしかろうが不可解だろうがなんだろうが、どうでも良くなってしまう。そこには仲間がいて、慰めがあるのだ。結構簡単に宗教人間は生まれるよねって話。

現実的にどういった人が宗教に目覚めるのか

そもそも人間は所属・承認・賞賛が無いと生きていけないようにできている。要するに仲間と賛成とプライドだ。まあ仲間もいなくて褒められもしない毎日は誰でも嫌だよね。所属・承認・賞賛が欠けた時に人は、本人が意識をしなくても本能的にこれらを求めるようにできている。これが前出の自己防衛本能だ。

そして、都合のいい事に宗教にはこれらが全て揃っている。揃えていると言ってもいい。

その中でも所属と賞賛に重きを置いて活動をしているのが、俗にいう新興宗教であって、どの団体も共通して頻繁に集会を開き、互いに何らかの形で賞賛しあう。それまで所属や賞賛に飢えていた人たちからすれば、相当に満たされる時間だろう。もちろん無料ではないのだけれども。

逆に言えばこれらが足りない人間が信仰に目覚めやすい人間ということになる。

例えば… 主婦 →とくに専業主婦。退屈な毎日と仲間の勧誘

近くに知り合いのいない若者 →夢を抱えて上京し大学入学するも、相談相手もできず

転勤の多いサラリーマンの家族 →一定の地点に居を構え、人間関係を構築できないことに起因する不安

出来過ぎる人 →高学歴。能力も高い。だけど何らかの原因で賞賛が得られておらず、世間に不満と不信

など。

身の回りにそういった人がいれば想像してもらえるかと思うけど、固定された人間関係から遠い人間が、やっぱり浸かりやすい。

まあ自分がどっぷり浸かって時間とお金と情熱を費やすだけならいいのさ。

でも現実的にそうはいかないから問題が起きて、問題が多いから世間から冷たい目で見られるのよね。

結局のところ

信仰させている側と信仰している側の2サイドで終わらないのが宗教問題の根深いところで、子供に対する洗脳や金銭の絡む問題は本当に悲惨の一言。

ここについてはこれから時間をかけて戦っていくのだろうと思っている。

また気が向いたら書きます。

あれから4年

相変わらずの根深い課題に若干うんざりしつつだけれども、まあまあ真面目に向き合い続けてはいる。